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2007.04.13

漢俳いま君は人生の……

漢俳なんてものがあるんですね。わたくしも初耳でした。

「冬去春来早」(温家宝首相)……中国にも俳句があるのだ!

 これは、上のブログへのTBです。

 で、いろいろと調べて見ました。

漢俳を知っていますか? 

 これを踏まえて温総理の作品を見ると、

和風化細雨
桜花吐艶迎朋友
冬去春来早

 上記リンクで見た作品(2作だけですが)は一応韻を踏んでおりますが、この作品は韻をふみおとしている部分がある(特に一句)ようです。ただ、一見して平仄はあっているような雰囲気です。内容は、もうひとひねり欲しいかな。

 というわけで、この漢俳、俳句のように五、七、五の漢字を並べて詩を作るというもののようです。漢詩でいうと五言、七言、五言の句が並んでいるというわけですな。

 いろいろと考えてみたんですが、この「漢俳」どうもなじめません。なぜかというと、五言の句と七言の句が同居しているからです。五言の詩(五言絶句、五言律詩など)は、イメージで言うと「質朴で、暗く、重い」感じです。これに対して七言の詩(七言絶句、七言律詩など)は、イメージで言うと、「華やかで、明るく、軽い」感じになります。これが、短い中でごっちゃになっているため、調和がすごくとりにくい。音楽でいうと最初の4小節は短調、次の4小節は長調、最後の4小節は短調、というような感じ。もちろん、古詩の名作には、五言と七言を同居させているものもありますが、それは調子を変えるというか、そういう効果を狙った特殊なケースです。

 あと、句が三つだけ(三行詩)というところもちょっと……。漢詩は「二句で一セット」が基本です。二つの句が共鳴して世界が広がっていくのが漢詩。だから、一般に漢詩の句は偶数です。なのに漢俳は、奇数の三句……。

 ところで、温さん、こんなこともしています。

夜は大阪市内のホテルでの歓迎夕食会に出席し、「扶桑今年春日好 桜花盛開催暖来(扶桑の国日本の今年の春は美しく 桜の花が咲き誇り、暖かさを送り届ける)」という自作の漢詩を披露。元記事

 これを漢詩と書く記者も記者ですが、温さんも、こういうことやらなかったらいいのに。自国の古典に対して無知なのが見え見えになっちゃっているじゃないですか。平仄はバラバラだし、対句にもなってない。二句しか作らないのならせめて形だけでも対句にすればよかったのに。

 人に歴史を直視しなさい、という前にまず自国の古典文学の勉強をして欲しいと思います。 

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Comments

 漢詩結社「葛飾吟社」会員、「日本漢俳学会」会員、10年で2万の漢語の詩詞を書き散らしている石倉秀樹(鮟鱇)といいます。漢俳をめぐるご意見拝読。漢詩を作られる方の着眼点として、まずはそうかと思います。句読点ときちんと書く絶・律作り、わたしもそうしていますので、二句一章重視の仲間に出会え、うれしいです。
 さて、そのうえで「漢俳」ですが、日本人が作ることを考えると、「押韻と平仄の規律」すなわち「韻律」を無視してはなかなか作れるものではなく、韻律を踏まえて作る楽しみを知って初めて漢字だけの詩を作ることになるのかと思います。そこで、日本では漢詩人しか漢俳を書けないし、そうでない立場でたとえ書いてもそう長続きはしない、と思います。しかし、だからといって漢詩人が、中国人の漢俳を、韻律を踏まえていないものが多いとして切って捨てるのも、また早計です。日本の漢詩人は、いくら吟肩を聳やかしてみても、律詩や絶句しか書けません。韻律をいくら誇ってみても、宋詞や元曲が唐詩と同様に韻律を踏まえて作られていることを知りません。知識として知っていても、作れない、つまりはその程度にしか韻律を知らないのです。そこで、漢俳をみると、唐詩の平仄に沿っているかどうかしか、見ることはできない。つまりは、長短句からなる詞や曲や、漢俳のリズムがつかめないのです。
 漢俳は、平仄・押韻にこだわりなく作っても、作品として味読できればそれでよい新定型です。そこで、古典の規律である「韻律」をもって漢俳を論じることはできません。しかし、「韻律」に基づいて作って悪いかといえば、そうでもない。わたしたち日本人には、短歌があるし俳句があるのだから、古典である詩詞の韻律を踏まえるのでなければ、何も漢字だけを並べて漢俳を作る必要など、はじめからない、だから、漢俳を作る以上は、日本語の詩歌にはない良さ=韻律を生かして、作る方がよいということもあるでしょう。
 しかし、韻律を生かした詩作りは、律詩と絶句ばかりでよいかといえば、わたしには、退屈なだけですね。韻律を堪能するうえで、平水韻で詩が書けるということが、どれだけのものかと思うからです。詞韻で詞を填め、中原音韻で曲を制し、それもめんどうなら中華新韻で、詩も詞も曲もやる、ついでに漢俳もやる、出ている料理をどんどん食う、それが韻律を踏まえて作る漢語の詩の醍醐味だと、わたしは思っています。10年で2万、付き合った定型詩体は300超。わたしは目に付いた韻律の皿にどんどん箸をいれています。しかし、定型といえば短歌と俳句ぐらいしかない日本では、俳人は俳句に、歌人は短歌に一所懸命。そして、漢詩人も、絶句と律詩だけに一所懸命のようです。見たことがない、食べたことがない皿に手を出さないのが、漢詩を含め日本の伝統詩歌の伝統なのかも、ですね。あれこれやらずに一所懸命にやれば、詩がうまくなりますかね。

鮟鱇さん:

鮟鱇さんにコメントをつけていただけるとは、光栄です。わたくしは、鮟鱇さんのことを存じ上げております。

わたくしも漢詩をちょこちょこと作っているだけで、鮟鱇さんのように多作できないのですが、昔立てた「月に一作」という目標ですら達成できていないのが実情、、、もうちょっとがんばります。

あと「漢俳」については、やはり「なじめない」というのが正直な感想です。

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