わたくしの祖父と本田宗一郎氏
ネットサーフィンをしていてある事実を知りました。
福耳コラム - 「女子大で講義する余談の多い経営学 #2」付加価値を目方で測るの巻
上記リンクで本田宗一郎氏の話が出てくるのですが、これがわたくしの祖父がやったこととまったく同じだったのです。
本田さんの話に戻りましょう。終戦直後、軍需品を作っても誰も買ってくれない。でも、自分は一通りなにかしら細工してものをいじる知識は持っている。いや実はこの方は、一通りどころではない方なのですが、まあそれはさておき、昭和二十年の秋、日本にたりなかったのは食料品です。そこで浜松の工場にいた本田さんは、その辺に転がっていたドラム缶を海辺にはこんで、木を切って薪で火をおこして海水を沸騰させ煮詰めて、塩をつくった。それを闇市に持っていき、米とか他の野菜と交換して大儲けしました。闇というからには厳密にいうと犯罪ですけどさ、そんなのはまあいいじゃないか、という時代背景だった。これはご自身で自伝に書いてあります。
これって、わたくしが親父から聞いたおじいちゃんのやっていたこととまったく一緒。違うのは製品(闇塩)の販売方法だけで、うちのおじいちゃんは、闇市に持っていかずに山奥の農村へもって行き、野菜と交換していたようです。うちの親父によると、当時、山奥の農村では、塩が極度に不足していたらしいです。(なんというマーケティングセンス!!)
これ以外にもうちのおじいちゃんは、闇タバコ、闇焼酎なども製造していたようで、これは、本田宗一郎氏もびっくり、というところかな? いや、闇酒は、蘇東坡先生も作っていらっしゃったから、うちのおじいちゃんは、本田宗一郎氏と蘇東坡先生を合わせたようなすごい人物だったのか~。
このブログの著者は、本田宗一郎氏をほめていますが、なんだか自分のおじいちゃんをほめられているようでうれしいです。うちのおじいちゃんも、その後「河村技研」を作って、世界企業になっていれば、、、今頃は、いい暮らしができているのになあ、なんて、夢想したりしてw。
ちなみにこの闇塩、すごく儲かったように書かれていますが、うちのおじいちゃんの場合は、それほど儲からなかったようです。うちの親父によると「しょっちゅう、警察に没収されていた」ようです。没収された日は、むちゃくちゃ機嫌が悪かったので、聞かなくてもわかった、とも申しておりましたです。あと、塩の製造も、24時間体制で煮込んだり、干したり……を一家総出でやっていたそうで、結構大変だったようですよ。
でも、今から思えば「これなんて塩幇?」という気もしますな。
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