日本の大学とちうごくの大学
皆さん、こんにちは。
今日は大学について書きます。わたくしは、高校卒業の学歴であり、本来は大学を語る資格のない人間だと思います。ただし、いろいろな現象から垣間見える「大学」というものが、本来の姿とはほど遠いのではないかと思わざるを得ない時があります。
このように学歴の低い人間でありますから、専門とかそういったものを語る資格は無いのかもしれませんが、ただ中国語については一家言持ってもいいと思います。
さて、昨年度視聴していた教育テレビの中国語講座においてよく大学生が登場していたのですが、彼らのレベルがあまりにも低すぎるということに驚愕を禁じえませんでした。長い時間をかけて、非常に優秀な先生に教えてもらって、しかも仕事をせずに学生と言う学業に専念できる身分であって、なぜこのレベルなんだと言う人ばかりです。彼らの身上には私学であれ公立であり非常に多額の税金がかかっています。
しかも、彼らは社会に出ると学士さまと言う非常に高い身分を手に入れ、わたくしなどが申し込むこともできない企業の募集に応募することができ、わたくしが面接まで行けないような企業にただ「若いから」と言う理由だけで採用されたりするのです。
まぁくだらない愚痴はその辺にしておきますが、少なくともわたくしが見た限り、あの程度のレベルであれば、仕事しながら勉強しても充分到達できるだろうと言う人ばかりです。低学歴のわたくしから見ても「おおっ」というような人は1人もいません。
さて、一方で中国の大学の状況を考えますと、わたくしが留学時代に会った中国の日本語を学ぶ大学生は、2年生の12月の時点で半数が日本語能力試験1級に合格し、3年生の12月の時点ではほぼ100パーセントの学生が合格しているというようなレベルでした。
話は変わりますが、日本国憲法の中に、学問の自由というものがあります。これには大学の構内において何を教えても良いと言う自由も含まれます。日本の大学はこの自由を非常に享受しており、聞くところによると一部の大学では中学生レベルの英語の授業を延々とやっているそうです。そして、中国の大学にはそういった自由はありません。先日も大学の先生が「こういったことをしゃべるな」「ああいったことをしゃべるな」というおふれが出され、各方面にさまざまな波紋を起こしたところです。
で、結論が「学問の自由なんかなかったほうがよかったんや」となりそうですが、自由があったところで怠けてばかりいれば結局意味がないということになるんですかね。
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