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2023.11.10

楚江懷古

楚江懷古


馬戴


露氣寒光集,微陽下楚丘。

猿啼洞庭樹,人在木蘭舟。

廣澤生明月,蒼山夾亂流。

雲中君不見,竟夕自悲秋。


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久しぶりに漢詩の話を書きたいと思います。


この詩は、三首シリーズのうちの一首目です。題名からもわかる通り、長江(楚江)で昔に思いを馳せる(懐古)という内容なのですが、この詩を最初から読んでいっても、なかなか「懐古」要素が出てきません。で、最後の方で「雲中君」という形でやっと「懐古」要素が出てきます。そして、これをもって後に続く2首につながっていく、という形になっているようです。


上記は、ちうごく語アプリ内のちうごく語解説で知りました。これから下は、独自の感想です。


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この詩の「雲中君」ですが、この部分は、「掟破り」なのです。掟通りに読むとこの部分は、「雲中」「君不見」と切って読むことになります。しかし、「雲中君」は、固有名詞ですので、分けて読むわけにはいきません。そこでこの部分は「雲中君」「不見」と読まざるを得ません。五言詩でこんな切り方をする句はほとんどありません。なぜかというと、リズムが悪すぎて、耳障りだからです。わたくしのような凡人なら「不見」「雲中君」としたでしょう。これでも意味は同じですし、漢詩独特の平仄や韻を合わせるためなら、語順変えてもおkというルールもありますから。


じゃあ、なぜ詩人は、こんな切り方をしたのでしょう。そして、この詩が『唐詩三百首』に入るくらい人々に愛されて来たのでしょうか。


それは、この耳障りな部分が印象的だからです。わざと「雲中君」をこういう形で出して、読者に鮮烈な印象を与えたからです。ここで敢えて掟を破ることでこの神様の名前が浮き彫りにされたのです。そして、ここにおいて、「楚江」と「懐古」が合わさったのです。


五言とか七言がリズムで、平仄はメロディ、といった話はまた別の機会に初心者向けの文章を書きたいと思います。

2023.07.04

古詩は難しい


この前、妻と漢詩の話をしていたのですが、なんか中途半端に終わってしまったので、ここにこのネタをまとめたいと思います。


漢詩は大きく分けると、古詩と近体詩に分かれます。要は唐の時代の最初の頃に「こういう風に漢字(音)を並べたら面白いんじゃね?」という詩の形が出来てきました。それが当時の人たちには新しかったので、それらが近体詩と呼ばれるようになりました。そして、それ以外のもの、つまり、それ以前の漢詩も含めて、近体詩の形に当てはまらないものは、全部古詩と呼ばれるようになりました。


つまり、平仄だの下三連だのここに対句だの、世間の皆様が漢詩に抱くややこしい規則にがんじがらめになっているイメージ通りなのは近体詩の方でして、古詩の方はルールは韻を踏まなきゃならないくらいです。それも、途中で変えてオッケーというゆるさ。一つ韻を踏んだら、次のところで別の韻に変えてもよく、極端に言うと、全部バラバラにしても、いいのではないか?というくらいゆるいのが古詩です。


とここまで書くと「近体詩は作るのが難しい。古詩は簡単」と思ってしまう人がいるかも知れません。しかし、実際は逆で、「初心者は近体詩から」で、古詩を作るなんて、我々初心者にはとんでもないことなのです。古詩はフリースタイルなので、内容が求められます。また、近体詩は、規則にがんじがらめになっているけど、その分逆に参考にすべき古典の名作も多く、流用できる部分もあるので作りやすいのです。


わたくしなど、「いつの日か古詩の大作をものにせむ」という野望を抱いていましたが、今では半分以上諦めています。


まあ、そんな感じです。

2023.02.20

漢詩の話の話

このブログにて時々漢詩の話を書いています。漢詩という分野は正直言って、あまり世間の関心のある話題ではありません。


最初の頃は、初心者でもわかるように注意しながら書いていました。が、今では、「わかる人にわかれば良い」というちょっと突き放したスタンスで書いています。


なので、これらの文章を理解できるのは、ごく一部分の人と言ってもいいでしょう。ただ、内容はできるだけ「どこかで聴いた話(道聴塗説)」ではなく、自分が感じた独自のものを書くようにしています。


こういうやり方の弱点は、あまりに狭い考えに陥って、反論に耐えないということが考えられます。ただ、「こういう見方もあったのか」と思っていただければ嬉しく思います。


この間、ツイッターで自分のフォロワーを見ていたら、お一人だけ漢詩関連っぽいのアカウントの方がいらっしゃるのを見つけました。


実は「どうせ誰も理解できないし」と思って書いていたのですが、わかっていただける方がいらしたのかなぁ。だとしたら、すごくうれしいです。

2022.11.28

蝋燭有心還惜別替人垂涙到天明

和歌に掛詞という技法があります。まぁ、一種のシャレ言葉のようなものなのですが、一つの言葉に複数の意味を持たせるみたいなものです。

で、かつて、漢詩を作っていた頃、まぁ偶然なのですが、一つの言葉に二つの意味を持たせることができたことがありました。その時、密かに「これは日本人である自分にしかできない技法だ」などと思って一人悦に入っておりました。

ところが、最近、唐の時代にこの技法を使った人がいることを発見しました。それは杜牧さんで、標題はその部分です。とても画期的な技法だと思うのですが、その後、この技法が継承発展されることはなく、単発の余技みたいになっているのが残念です。

自分としては、この技法を発展させていきたいという野望を持っていますが、今は漢詩を作るなどという心の余裕がありません。また、いつか漢詩を作れるようになればいいですね。

2022.10.02

春草明年緑王孫帰不帰

現代中国語の文法に肯定型と否定型を並べて疑問文にするというのがあります。

初学者のころ、ニフティサーブなどのパソコン通信でいろんな人と交流しており、その中にこの疑問型について、「行くの?行かないの?」みたいな厳しい問い方に感じるというご意見が書かれていました。このご意見には、当時から少し違和感を感じていたのですが、自分の中ではなんとなく「この用法は口語的だな」という印象をもっていました。

それが実は『唐詩三百首』の中にこの用法がありました。標題は、王維の五言絶句の抜粋です。つまり、少なくとも唐の時代にはあったということです。王維の五言絶句にあるということは、この用法は多分文語なんでしょう。要するに自分がなんとなく思っていた「口語的だな』という感想は間違いでした。

あと、「厳しい問い方」という前述のご意見も、この五言絶句全体に流れる牧歌的な空気から完全に否定できます。この詩の最後の部分、疑問文の形をとっておりますが、むしろ願望というか、実現不可能な願いというか、そんな思いを感じます。感じられるのは、厳しい問い方でなく、「帰って来ないのかい?」みたいな優しい問いかけです。

英語で「why」から始まる疑問型をとりながら、実は提案するという文型があります。これも、はじめて見た時、「なんで〇〇しないんだ」みたいな問い詰めるような言い方に聞こえてイヤな感じがしましたが、間違いです。

以上、外国語を日本語に直訳して、日本語の語感で判断することの愚かさと王維は五言詩も上手いなあ、という話でした。

2022.05.30

『雑詩』ふたたび

かつて王維の『雑詩』について書いたことがありました。



それから、この詩について考えるに、いろいろ分からないことが出てきました。

自分にはまだこの詩について語る資格はないようです。

じゃあ、いつ語る資格がある状態になるかというと、今の自分の漢詩学習法では永遠に来ない気がします。

漢詩は奥が深い。まぁ、ぼちぼちやっていきます。

2022.04.11

『兵車行』について

最近、戦争のことなどもあり、杜甫の『兵車行』について考えてみました。


この詩は反戦詩です。反戦詩にもいろいろあって、現場の戦場の悲惨さを伝えるものもあります。しかし、この詩には悲惨な戦場の場面は出てきません。杜甫自身に従軍経験がないこともあり、悲惨さは主に杜甫自身が目撃した兵士を送り出す側の場面を描写することで表現されています。それでも充分貧しい人たちの塗炭の苦しみが伝わってきます。

そして面白いのが、最後のクライマックスです。「君不見」からはじまるこの部分ですが、よく考えてみると、杜甫自身も青海には行ったことがなく、見たこともない筈です。つまり、この部分は完全な「心象スケッチ」です。(幽霊が文句言ったり、泣いたりするところを見ること自体がアレなんですが)それを「君不見」と言っちゃうあたり、まぁこれは漢詩の慣用表現みたいなものというか、合いの手みたいなものなのですが、「誰も見たことないわ」とツッコミをいれたくなるのは自分だけでしょうか。

2022.04.04

漢詩で風刺

風刺という表現方法があります。

ただ、そういうのって、見ていてちょっと品がないというか、作者の品性を問われそうな内容であると思ってしまうこともあります。「人を笑わば穴ふたつ」なんで、正直こういう表現方法に賛同しがたい部分があることも否めません。

漢詩の中にも、風刺した作品があります。特に七言詩で作られた風刺の詩は、七言詩の醸し出す優雅さと相まって、とても美しく感じられます。これ、馬鹿にしているんじゃなく、褒めてるんじゃないかと思うこともあります。律詩書かせたら、ワケのわからないのしか作れない李商隠さんの絶句なんどを読ませていただいて、そう感じます。

2022.02.25

但の意味

但という漢字があります。

日本では「但し」という接続詞に使われることが多く、中国でも「但是」と書くと逆説の接続詞になります。

この度杜甫の『客至』という七言律詩を読んでいました。この詩の冒頭に、「舎南舎北皆春水但見群鴎日日来」とあり、今までは「但」という字を逆説の接続詞として読んでいましたが、どうもしっくり来ないことに気づきました。

そこで調べてみたら、「但」の字は、逆説の意味だけでなく、「ただ」という意味もある、というかどっちかというと、こっちの方がもともとの意味のようです。「但し」という書き方は多分当て字なんでしょう。

そして、そういう意味で捉えてみると、この詩の冒頭部もしっくり来ました。何か違和感があれば辞書にあたるということは学習の基本ですね。

2021.11.30

『横浜たそがれ』と七言絶句

『横浜たそがれ』という歌があります。

歌詞は書きませんが、名詞をぶつ切りに並べていくという形の詩が特徴的な歌です。(同じような歌として『北国の春』の冒頭部分が挙げられます)

この形式が実に漢詩的で七言絶句の味わいを彷彿とさせるものが同曲にはあります。

漢詩的の例を挙げますと『長恨歌』で二箇所ほど、この「名詞ぶつ切り」句を見ることができます。

調べてみたのですが、作詞者と漢詩の接点はあまりなく、偶然なのかも知れません。