今日も外国語の勉強について書いていきます。
前回、普通の人にとって外国語の習得には非常に長い時間と多くの量の学習が必要であると書きました。まるで苦しみばかりで楽しみが全くないと言うような救いのない話のようにも聞こえます。しかし、前回も書きましたが自分自身が成長していく喜びと言うものがあり、私が中国語をここまで頑張ってこられたのもその喜びがあったからです。ただ、その喜びも前に進めば進むほど小さくなっていきます。同じ1歩進むにしても短い距離を来た人と長い距離を来た人ではその1歩の大きさの感じ方が全く違ってきます。
ただし、語学にはもう一つの楽しみがあります。それは実際に生きている学問であるということです。つまり、一生懸命勉強したことがらは実際に道具として使うことができます。これが語学の醍醐味の1つといっても過言ではないでしょう。わたくしが本格的に中国語にはまる前は歴史や古典文学などあまり実際には役に立たないものばかり勉強してきましたが、中国を勉強して分かったことは、生きている学問の素晴らしさです。勉強してきたことを実際に使えるのだから、こんな楽しい事はありません。
ただし、道具としての外国語と言うものには常に不自由な感覚がつきまといます。まるでものをマジックハンドでものを取ろうとしているようなそういった不自由な感じです。この感じは外国語である限り常につきまとうものであると思います。少なくともわたくしは今までずっとその感覚から逃れることができなかったし、これからも逃れることはないでしょう。そういう感覚がないほど自由に使えることができれば、それは外国語ではなく母語です。つまり、外国を長時間使っていると、とても疲れます。わたくしはこれを「頭脳の肉体労働」と呼んでいました。
あと、気をつけていることは母語を使っている脳の部分と外国語を使っている脳の部分は違うと言うことです。例えば外国語を勉強していると「この日本語は外国語ではどういうのかな?」と言うようなことを思いがちです。しかしそのように日本語と外国語を結びつけるような形で勉強するのはあまり得策ではありません。私は学習するときにはできるだけそのようなことは考えずに中国語を中国語で聞き中国語で理解し中国語で話し中国語で書くと言う部分を鍛えることに主眼を置いていました。いちいち日本語に訳す癖をつけてしまうと、外国語を聞いている時も読んでいる時も非常に時間がかかってしまいます。特にヒアリングではネイティブスピーカーの話す速度についていくことができなくなります。逆に言うとヒアリングの教材はできるだけネイティブスピーカの話す速度と同じ速度のものを探して学習していました。初心者用にわざとゆっくりと話しているような教材は却って逆効果です。中国語を中国語で聞いて中国で理解する回路をまず作らねばなりません。
今日のところはこの辺にしておきます。また何か書くかもしれません。
今日は外国語の勉強について書きます。
私の場合は、中国語の勉強と言うことになるのですが、外国語の勉強と言う意味ではある意味共通項というのがあると思います。
まず言えるのは、才能のあるなしというのは絶対にあります。才能のある人は、少し勉強しただけでもすごく上達が早いです。逆に才能のない人は、がんばってもがんばっても報われないという厳しい部分が明らかに存在します。
世間的には「努力するものは報われる」や「走った距離は裏切らない」などと言う名言が聞かれますが、それは残念ながら万人に通用するものではありません。才能のない人が、才能のある人と競い合おうとすれば、自然と倍あるいは4倍の努力が必要とされ、ときにはそれすらも無意味であったと言う結果に終わることも多々あるでしょう。
それでは、才能のない人は勉強する意味がないのかといいますと、わたくしはそうは思いません。わたくし自身も才能のある方だとは思っておりませんし、今まで何回も天狗の鼻を折られた経験を持っています。それでも一生懸命に頑張ってこられたのは、「努力して自分の力が伸びていくことを実感する」--これが非常に楽しいものだったからです。
さて、才能のある人はごく1部です。ほとんどの人は才能がありません。そういう人にとって、外国語を習得すると言う事は、非常に長い時間をかけて、非常に多くの量の学習をしなければならないと言うことになります。英語をはじめとして外国語をペラペラと喋っている人を見かける機会があると思います。もしかしたら「かっこいいなぁ」と思うかもしれません。また、わたくし自身もそういうふうに感じられてきていたのかも知れません。しかし、その背景について思いをいたす事は少ないのではないでしょうか。外国がペラペラになると言う事は、才能のない人にとっては、非常な努力を重ねてきたと言うことです。
さらに帰国子女について書きます。帰国子女は何かと特別な扱いを受けがちです。特に語学の学習については「あの人は帰国子女だから」と言われがちです。わたくしも留学生時代に帰国子女的な方と机を並べて勉強したことがあります。わたくしはその時にその方を特別扱いすることはありませんでした。同じ土俵に立っているライバルとして見ていました。そして、全然叶わない悔しさを味わいました。何故かと言うと、その人がどのような環境で暮らしたとしても母国語でない言葉をゼロから学び覚えたという過程には変わりはなく、それがまるで何の努力もなく手に入れたもののように思ってしまうのは他人の浅はかさでしかないからです。その人が外国語を習得したと言う事は、才能のあるなしと言う条件はあるにしろ、その裏に非常な努力の積み重ねがあった事は間違いのないことです。それは環境がどうのこうのという問題ではありません。結果としてその人が積み上げてきた努力をまるで無料で手に入れたかのように言う考え方にわたくしは絶対に賛同できません。
色々と書いてしまいました。まだまだこれ以外にも思う事はあります。機会を見つけてまた書きたいと思います。
皆さん、こんにちは。
今日は大学について書きます。わたくしは、高校卒業の学歴であり、本来は大学を語る資格のない人間だと思います。ただし、いろいろな現象から垣間見える「大学」というものが、本来の姿とはほど遠いのではないかと思わざるを得ない時があります。
このように学歴の低い人間でありますから、専門とかそういったものを語る資格は無いのかもしれませんが、ただ中国語については一家言持ってもいいと思います。
さて、昨年度視聴していた教育テレビの中国語講座においてよく大学生が登場していたのですが、彼らのレベルがあまりにも低すぎるということに驚愕を禁じえませんでした。長い時間をかけて、非常に優秀な先生に教えてもらって、しかも仕事をせずに学生と言う学業に専念できる身分であって、なぜこのレベルなんだと言う人ばかりです。彼らの身上には私学であれ公立であり非常に多額の税金がかかっています。
しかも、彼らは社会に出ると学士さまと言う非常に高い身分を手に入れ、わたくしなどが申し込むこともできない企業の募集に応募することができ、わたくしが面接まで行けないような企業にただ「若いから」と言う理由だけで採用されたりするのです。
まぁくだらない愚痴はその辺にしておきますが、少なくともわたくしが見た限り、あの程度のレベルであれば、仕事しながら勉強しても充分到達できるだろうと言う人ばかりです。低学歴のわたくしから見ても「おおっ」というような人は1人もいません。
さて、一方で中国の大学の状況を考えますと、わたくしが留学時代に会った中国の日本語を学ぶ大学生は、2年生の12月の時点で半数が日本語能力試験1級に合格し、3年生の12月の時点ではほぼ100パーセントの学生が合格しているというようなレベルでした。
話は変わりますが、日本国憲法の中に、学問の自由というものがあります。これには大学の構内において何を教えても良いと言う自由も含まれます。日本の大学はこの自由を非常に享受しており、聞くところによると一部の大学では中学生レベルの英語の授業を延々とやっているそうです。そして、中国の大学にはそういった自由はありません。先日も大学の先生が「こういったことをしゃべるな」「ああいったことをしゃべるな」というおふれが出され、各方面にさまざまな波紋を起こしたところです。
で、結論が「学問の自由なんかなかったほうがよかったんや」となりそうですが、自由があったところで怠けてばかりいれば結局意味がないということになるんですかね。
前回は中国語のカタカナ表記について反対の態度を表明いたしましたが、今回はもう少し掘り下げて書いてみたいと思います。
外国語のカタカナ表記というものは、外国語の発音を日本語化するというだけのことであり、決して外国語の発音を正しく日本語化したものではありません。
例えていいますと、すでに外来語として定着している英語の中で「アップル」「アンブレラ」「アース」などのカタカナ表記は全て「ア」で始まり同じカタカナで表示されていますが、この3つの英語の最初の発音は英語の中ではすべて全く違う母音として認識されていると思います。しかし、幼い頃からこれらのインチキカタカナ表記の外来語に慣らされてしまった人にとっては、これらの言葉の最初の発音はすべて同じ発音として脳内にすりこまれてしまっているのです。もっとも顕著な例としては「 R」と「L」の違いが挙げられます。この2つの子音は、カタカナ表記において全て同じラ行として表記されてしまっているがために、ほとんどの日本人が聞き分けることのできない子音となってしまっています。
これは中国語においても同じことが言えます。カタカナで中国語を完全に再現することは不可能に近く、しかも一般のカタカナ表記においては間違った日本語化が見られるというのが事実です。最近よく見られる表記に「ウェイボー」と言うのがあります。これは、Twitterのパクリサービスの「微博」をカタカナ化した悪例です。この言葉を拼音字母と言われる表記でアルファベット化すると「weibo」となりますが、実は最後の「o」は、短母音ではなく、二重母音なのです。それを聞き取れない人たちが勝手に短母音化して「ウェイボー」などと表記し、害毒を垂れ流しているのです。
英語では既にこの害毒は救いようのないところまで来ています。中国語では、どういうわけか最近こういう流れが強くなり、増えてはいますがまだ害毒が救いようのないレベルに達しているとまでは言いません。ただ、これ以上この流れが強くなってくると、英語のように救いようのない結果を中国語学習者にもたらすことも、また疑いのない事実です。だから、誰かが反対しなければけないのです。わたくしが、どんなに声高に叫んだとて、この流れは止めようがありませんけど。
ただ、誰も見ていないブログとは言え、わたくしにはこの「主張する場所」というものがあるのです。こういう形で「世の中が悪化する流れをできる範囲で少しでも堰き止めようとした」という妙な安心感を得るためにわたくしはブログを書いているのかもしれません。
ネットで見たニュースに次のような一節がありました。
----引用開始---
習近平国家主席は腐敗撲滅のため、「ぜいたく禁止令」を出し、国民は質素な生活を強要されていることから、「死んだ毛沢東に金をかけるよりも、生きている老百姓(ラオバイシン=庶民)にもっと金をかけろ」とネット上では非難ごうごうだ。
http://s.news.nifty.com/topics/detail/130825706879_1.htm
---引用終了---
「老百姓」という中国語に(ラオバイシン=庶民)というカッコ書きをつけていますが、作者の意図がさっぱりわかりません。「百姓」と言う言葉は、日本語では通常「ひゃくしょう」と読み、農民のことを指しますが、漢文では多くの場合「ひゃくせい」と読み、庶民のことを指すことが多いです。「老百姓」という現代中国語は、この流れを汲んだ言葉です。
この記事の作者がなぜこの言葉だけ中国語にしたのかがさっぱりわかりませんが、中国語を出すのなら、読み仮名は「ろうひゃくせい」であるべきです。カタカナでは中国語を表現できません。
日本語と中国語は、発音が全く違う別言語でカタカナ表記が不可能であることをここで言いたい。
まずは陳真先生懐かしい、というのがありますね。わたくしの中国語は陳真先生のラジオ講座から始まりましたから、、、と言っても、わたくしの場合は、NHKのラジオ講座ですけどね。
あと、ココリコのお兄さんですが、中国語を聞き取る時の姿勢が素晴らしいことに気づきました。前傾姿勢になるとなぜかヒアリング力がアップするんですよね。このあたり、試験に臨む学習者のみなさまにはぜひ参考にしていただきたいと思いました。
あと、段ちゃん、日本語の「る」の発音が舌足らずでカワイイことに気づきました。中国語の発音はあのメンバーで一番マトモですがね。
最後に阿部ちゃんは、わたくしより中国語がうまいです。どうでもいいけど、自分より中国語のうまい外人を見るとすごく悔しいですが、たいていどうしようもない差がついているので、諦めるしかないというのも事実ですわw で、アレだけ中国語がうまくてなんで役者なんてやってるんだろ、もっと実入りの良い仕事ができるのになあ、と思いながらいつも見ていますw
Recent Comments